耳ヨリくじら情報
2023年、秋田市公設地方卸売市場の生鮮クジラの取扱量は1万3366キロ、冷凍クジラは3642キロ。塩クジラは5622キロ。塩クジラは取扱量が減少したものの、生鮮、冷凍とも取扱量は増加した。調理法などが継承されにくくなってきている塩クジラが敬遠された可能性がある。
能代市で酒にこだわり郷土料理を提供する「酒どこ べらぼう」。2代目店主の成田潤一氏は「くじらかやぎは、ナスがあれば周年作って提供する。おいしいダシの出た汁を飲みながら、ナスはダシを含み、酒のいいアテになる」と語る。
同店では、原料にはツチクジラを使用。ナス、豆腐などを入れた味噌仕立て。ナガスのベーコンは仕入れ値が高くなってから中断しているのが悩みだ。週末にもなると観光客も多数来店する人気店で、くじらかやきの注文を受けている。
秋田県の内陸部で鯨食文化が広がったのは南は雄物川、北は米代川による舟運などで日本海沿岸から鯨肉が持ち込まれた影響とみられる。
縄文時代と古代の集落跡が確認されている現在の大館市でも、内陸にもかかわらず「池内(いけない)遺跡」ではブリ、サバ、サメの骨が見つかっている。
「米代川を介して日本海沿岸や、峠を越えて青森や三陸から、海産物を手に入れたのではないか」(「池内遺跡 遺構篇」、秋田県教育委員会、1997・3)と推察されている。
さらに雪の多い山間部では第2次世界大戦後、冬場の出稼ぎで南極海捕鯨に多くの人が従事した。かつて大洋漁業(株)(現・マルハニチロ(株))の南極海捕鯨船団には約1200人が従事した。
前回の青森編でも八戸市南郷からの多くの出稼ぎを記した。秋田でも同様に戦後、男鹿からは約10人、現在の仙北郡美郷町六郷付近および大仙市(旧・西仙北町)からも、それぞれ約40人が南極海捕鯨に従事した。
かつて西仙北町助役を務めた故・佐藤金勇氏は「聞き書 南氷洋出稼ぎ捕鯨」(無明舎出版)をまとめた。
地元紙・秋田魁新報は、昨年5回にわたって、六郷東根在住のかつての捕鯨従事者を訪ねた記事「内陸の船乗り 六郷東根出稼ぎ捕鯨」「続・出稼ぎ捕鯨」を記した。意欲的な取材で、当時の様子などを詳細に伝えている。
秋田の内陸部などでは、こうした捕鯨従事者による南極海での鯨肉の食習慣なども「クジラを食べる」環境が残されている要因とみられる。
65年に船を降りるまで南極海捕鯨に従事していた大仙市在住のTさんは、地元紙の記者に「できればもう一度(南極海に)行きたい」と答えている。
美郷町歴史民俗資料館には、当時のナガスクジラの解体の写真、90ミリの捕鯨砲の薬きょうや捕鯨銛(もり)の実物、捕鯨銛の説明パネル、南極海のマッコウクジラの歯や北洋で捕獲した16メートルのオスのセミクジラのヒゲなどを展示。また、当時出漁していた83人の記名板なども残されている。
男鹿市の船川には「くじら学校」と呼ばれる船川第一小学校がある。前に新潟編で紹介した「くじら学校」の上越市立上下浜小学校と同様にクジラを販売した金で小学校を建設した。新潟は12年に浜に打ち上げられたクジラを販売。男鹿ではさらに前の1889年、海岸に打ち上げられた110頭余りのクジラを捕獲。このうち50頭は村民に配分して残りを売却。現在の男鹿市庁舎の裏の高台の場所に、当時約258平方メートルの小学校を建築した。同校100周年を記念して1991年には記念碑も設置している。
まとめ
今年度取材した山形、青森、秋田などをはじめ東北地方には、今もしっかりと鯨食文化が息づいている。また、これを継承していこうと取り組む多くの人もいる。
鹿児島・熊本でも鯨肉は大切に扱われてきている。
ローカルスーパーで手軽に鯨肉が手に入るようになってきているのも心強い。大量に売れるものではないが、背景にはこれを支えるメーカーや流通従事者がおり感謝したい。
かつてはオリンピック方式で競うように行われた捕鯨だが、現在は持続可能な水産業の最先端をいく。捕鯨はすでに終わった産業ではなく、これからも大切に保ち、未来につなげていくべき産業であることが分かるのではないだろうか。
【豆知識】
秋田や山形の地域は数百万年前は海だった。秋田県南部の由利本荘市で発見されたヒゲクジラの仲間の化石「デワクジラ」は1000万~800万年前の地層から見つかった。
また、大仙市では500万~200万年前の地層からの化石が刈和野の大綱交流館の敷地に展示されている。このほか能代市では昨年11月、約270万年前の地層からヒゲクジラの化石が発見され調査が行われている。