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2024年9月の発売から、わずか5か月で8刷を達成した絵本『クジラがしんだら』(童心社)。深海に沈降したクジラの死骸を中心に形成される生態系である、「鯨骨生物群集」をテーマとする一冊で、小さな子どもはもちろん、大人にとっても読み応え十分です。同書を監修しているのは、海の研究を通じて、科学技術の向上、学術研究の発展、地球や生命の理解などに貢献するための活動に取り組んでいる『JAMSTEC(国立研究開発法人海洋研究開発機構)』の上席研究員・藤原義弘さん。前編ではクジラと関係の深い研究にもさまざまに携わっている藤原さんに、海の生き物や環境に関心を持ったきっかけから現在に至るまでを伺っていきます。

クジラのコミュニケーションについて学びたくて、水族館に「働かせてほしい」と手紙を書いたことも
――藤原さんは深海生物学や分子生態学、共生生物学をご専門とされていますが、子どものころから生き物に興味があったのですか?
藤原「小さいときから生き物は好きでした。岡山県の生まれで、家のすぐ近くに川がある自然豊かな環境で育ったのですが、父親が釣り好きだったので、いま思うとその影響もあったかもしれません。将来、生き物に関わる仕事に就きたいと考えるようになったのは中学1年生のときです。担任が理科の先生で、大学で生物を学ばれていた方だったことで、“生物を学ぶことでできる仕事があるんだ!”と気づきました。以来、生き物に関わる仕事をしたいと考えるようになり、大学は、国内でもっとも生物関連の教員数が多く、興味を惹かれるカリキュラムも豊富な筑波大学を選びました。そのころにはクジラのコミュニケーションに強い関心を抱いていたのですが、鯨類の生態について詳しく学べる授業がなかったことから、入学後、鯨類を飼育する某水族館にタダ働きでいいので研究させてほしいと手紙を送ったこともあります。残念ながら採用はされなかったんですけどね」

親子のザトウクジラを間近で見た感動は忘れられない
――どうしてクジラのコミュニケーションに興味を持たれたのですか?
藤原「クジラは非常に高度なコミュニケーションをとっていると知り、具体的にどんなことをしゃべっているのかを知りたいと考えたんです。しかし、そこからしばらくは実物を間近に見る機会もなく、初めて至近距離で見ることができたのは大学4年生のころでした。小笠原でダイビングボートに上がって休憩していたところ、クジラのほうからこちらに近寄ってきたんです。ホエールウォッチングで有名な小笠原には、“船のほうからクジラに近寄ってはいけない”“クジラがいるときに海に飛び込んではいけない”などのルールがあるので、“ボートのうしろのタラップに腹ばいになって観察するならいいですか?”と確認したところ許可を得ることができたので、うつ伏せになって観察していると、ザトウクジラの親子が船の真下に泳いできてくれたんです。すごくうれしかったことを覚えています」
大学時代に修得した分子生物学の技術を活かした仕事がしたかった
――クジラの研究者としての道を進まれる選択肢はなかったのですか?
藤原「実は、大学院生のころ『日本鯨類研究所』から内定を頂いたのですが、ちょうど日本の捕鯨を取り巻く状況が厳しくなるタイミングだったということもあり、これまで学んできた研究手法や技術をより活かすことが可能な職場を求めて辞退しました。
“技術”というのは、大学院時代に修得した分子生物学に関する技術で、今後の研究に応用したいという願望がありました。
――分子生物学とはどのような学問なのですか?
藤原「生命現象を分子レベルで解明する学問で、最近では、遺伝子の研究に主眼が置かれていますが、当時は(研究対象の生物の)タンパク質について研究している段階でした。なぜ分子生物学に興味を抱いたかというと、学生時代に所属していた『海洋研究会』というサークルでの経験が関係しています。小笠原以外にも国内外あちこちの海に潜って生き物を追いかけていたのですが、次第に魚類の性決定のメカニズムが気になりはじめ、詳しく調べたいと思うようになりました。魚類は脊椎動物なので高等な動物に該当しますが、性の決定に関しては他の多くの生物と異なり不安定で、雌雄同体の魚種もいれば、環境変化や成長に伴い性転換する魚種もいます。生き物が性転換する過程で、生殖腺には大きな変化が起こり、性転換前後でタンパク質の構成に大きな違いが出るのではないか、その変化を詳しく調べることで魚類の性決定メカニズムを明らかにできるのではと考えました。そこで、ニワトリの筋肉の発生をテーマとしていた学内の研究室に赴き、“先生の研究手法に興味があるのでここで学ばせてほしい”と直談判しました。その際、“ニワトリそのものには興味はないのですが”と正直に告白したにも関わらず、“ひとりぐらい異分子が混ざっていたほうがおもしろい”と受け入れてくださった先生には今でも感謝しています(笑)」

現在は、地球環境の変動が海洋生態系に与える影響や、沖合海底自然環境保全地域の生物多様性などを調査・研究中
――『JAMSTEC』入職後はどんな研究に携わっているのですか? 藤原「JAMSTECでは、5年~7年スパンで中長期計画が変更されるので、時流に合わせて常に新しい研究に挑戦できています。私の場合、現在は、大きくわけて3つの研究を実施しています。1つは、地球環境の変動が海洋生態系にどういった影響を及ぼすのかという研究です。浅い海の生物に関してはすでに研究が進んでいますが、深い場所への影響は十分にわかっていないため、相模湾に面した伊東市赤沢と駿河湾に面した焼津市にある深層水取水施設から定期的に海洋深層水を頂いて大量にろ過し、環境DNAを調査するという研究を続けています。2つめは、沖合海底自然環境保全地域の生物多様性調査です。これは、2020年に我が国の海洋保護区が8.7%から13.3%にまで広げられたことを受けてスタートしたものです。そして3つめは、深海の“洞窟”を探査するプロジェクトです」
深海に存在するはずの洞窟に、どんな生き物が棲息しているのかに興味があった
――深海に洞窟が存在するのですか?
藤原「厳密にいうと、“もし深海に洞窟があるなら、とんでもなく古い形質(※生物のもつ性質や特徴のこと)の生き物がいるのでは?”という仮定からスタートしています。実際、陸上や浅い海では、鍾乳洞などの洞窟から“生きた化石”と呼ばれる古い形質の生き物が数多く発見されています。もし深海に洞窟があれば、餌が豊富で住みやすい環境のなかで競争に負けた生き物が、深海の袋小路で見つかる可能性は高いと考えました。しかし、深海に洞窟があるとして、そのなかを調査する技術がなければ研究を進めることができません。そこでまず着手したのが、深海内視鏡と小型のROV(水中ドローン)の開発でした。内視鏡は大型のROVのロボットアームで操作可能なもので、小型の穴の中を観察するために必要です。また、一般的なROVではサイズが大き過ぎて、おそらく”洞窟”に入ることができないだろうと考え、大型のROVから“出動”できる小型のROVを準備しました。次に考えなければならないのは調査海域でした。これに関しては、学生時代から目星をつけていた沖縄本島の東部にある大東諸島を選びました。」

従来のROVから“出動”する小型のROVが完成したことで、海のなかの洞窟の観察に成功した
――なぜ大東諸島が調査に適していると思われたのですか?
藤原「大東諸島は南西諸島の他の島々とは異なり、フィリピン海プレート上に存在するため、他の島々とは辿ってきた歴史が違います。大東諸島は今からおよそ5,000万年前に赤道付近で誕生したものと考えられています。そして誕生当時、すぐ近くにはすでにインドネシアが存在していました。インドネシアはシーラカンスが生息することで知られていますので、大東諸島にもシーラカンスに匹敵するような、古い時代の生きものが生き残っていても不思議ではないのではないかと考えました。加えて、大東諸島が北上を続けるなかで、島が立脚する海洋底プレートは徐々に沈み込んで行きました。にもかかわらず現在でも島が存在しているのは、島の上部に常にサンゴ礁が形成されたからです。従って、大東諸島は島の陸上部分から水深約2,000メートルまで全て石灰岩でできています。実際、島の地面の下は鍾乳洞だらけなので、深海洞窟も期待できるのではないかと考えました。2024年4月に最初の調査を実施した結果、水深300〜400メートルにかけて、たくさんの海底洞窟を発見しました。また完成したmini ROVを使って洞窟内を探査したところ、内部には外部とは異なるさまざまな生物が生息していることがわかりました。とはいえ、第一回目の調査では、大型のROVと小型のROVをつなぐケーブルを15メートルしか用意できなかったので、穴の奥深くには到達できませんでした。そこで2025年度は長いケーブルを用意して、穴の奥深くまで歩を進める予定です」
中学時代の担任教師や大学の研究室の先生など、多彩な方々との出逢いによって、生き物への見識を深めていった藤原さん。前半では、研究員としての礎を築いてきた過程や、今現在携わっている研究についてお伺いしましたが、後半ではいよいよ、鯨骨生物群集の調査・研究について伺っていきます。

▶藤原義弘さん
藤原義弘(ふじわらよしひろ)
1969年岡山生まれ。筑波大学大学院修士課程環境科学研究科を修了(理学)。博士(理学)。
国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)上席研究員。東京海洋大学大学院客員教授。
海底に沈んだクジラが作り出す「鯨骨生物群集」の研究を中心に、深海に生きる生物たちの関わり合いを解き明かす研究をつづけているほか、生きた深海生物の撮影にも精力的に取り組む。
著書/監修、
「くじらがしんだら」(童心社)、「深海のとっても変わった生きもの」(幻冬舎)、「潜水調査船が観た深海生物―深海生物研究の現在」(共著、東海大学出版会)、「追跡! なぞの深海生物」(あかね書房)、「深海生物生態図鑑」(あかね書房)、「深海‐鯨が誘うもうひとつの世界」(山と渓谷社)、「深海生物大図鑑」(監修、高橋書店)、小学館の図鑑NEO「深海生物」(小学館)など多数。